LOGINちょうど話している最中に、瑛介の携帯が不意に鳴りだした。瑛介の母はその音を聞くなり、眉をひそめた。「食事中どうしてマナーモードにしないの?」だが、すでに鳴ってしまった以上、瑛介は携帯を取り出し、画面を確認した。表示された着信を見て、彼の口元の笑みがわずかに消えた。「ちょっと電話に出てくる」そう言うと、すぐに席を立ち外へ出ていった。「さあさあ、私たちは先に食べましょう。気にしないで」瑛介の母は皆を促した。弥生は席に座ったままだが、心は瑛介の後を追っていた。先ほど彼が着信を見たとき、一瞬顔色が険しくなったのを見逃さなかったからだ。きっと良くない知らせだろう。胸の奥に不安が広がり、とても食事どころではなくなった。彼女は箸を置いた。「私、ちょっと見てくるわ」一同は一瞬驚いたが、すぐに笑って返した。「わかった」弥生は微笑んで席を立ち、外へ向かった。残った人々は、その様子を見て思わず笑い合った。「最近の若い人たちは、本当に離れたがらないね」「そうだね。でも、それだけ仲がいいってことだ。長続きする証拠だよ」「確かに」皆で和やかに笑い声をあげた。弥生は足音を忍ばせて庭を出た。瑛介はすぐ外で電話していると思ったが、意外にももうかなり遠くまで歩いていた。その背中しか見えず、会話の内容は聞こえない。彼女は歩みをさらに静かにして、少しずつ距離を詰めた。近づくと、ようやく彼の冷ややかな声が耳に届いた。「どうするかは前に伝えたはずだ。もう一度言わなきゃ分からないのか?」「ですが、以前は霧島さんが......」「それは以前の話だ」瑛介の声は氷のように冷たい。「前回、通報しなかった時点で貸し借りは終わっている」彼は鼻で笑った。「機会をやっても要らないと言い、挙げ句の果てに僕の大切な人を傷つけた。そんな相手と話すことはもうない」二度と弥生を奪わせない。二度と彼女を傷つけさせない。今回だって、もし自分が駆けつけるのが遅れていたら。想像するだけで胸が押し潰されそうになる。昔は食欲旺盛だった彼女が、今では小さくしたものを口に運ぶのがやっとで、脂っこいものは受け付けず吐き気を催す。記憶も戻るか分からない......考えれば考えるほど、息苦しさで胸が詰まる。そんな彼女を傷
昼食の時間が近づいたころ、和紀子の夫であり、瑛介のおじいちゃんである渡部鎮雄(わたべ しずお)が帰ってきた。手には魚を提げていて、「今日は昼に孫たちに腕前を披露してやろう」と笑いながら言った。和紀子から弥生と瑛介も来ていると聞くと、すぐに家に駆け込んで二人に挨拶した。鎮雄はとても穏やかな性格の人で、少し世間話を交わすと、「ご飯の支度をしないと食事の時間が遅れてしまう」と言って、すぐに台所へ向かった。弥生は戸口に立って、その背中を見送る。和紀子が後ろからついて行き、手伝いを始めた。それが普段の彼らの生活の一コマなのだとすぐに分かった。「気に入った?」耳もとで不意に瑛介の声がした。弥生が返事をする前に、彼は続けた。「もし気に入ったなら、僕たちも年を取ったら、こういう生活をすればいい」弥生は、彼がそんな未来の話を持ち出すとは思わず、頭の中にその情景を思い描いてみた。「彼らみたいに?」「彼らみたいにでもいいし、君の望むようにでもいい」「でも、彼らみたいにって無理じゃない?あなた料理できるの?」思いがけない質問に、瑛介は言葉を失った。弥生が顔を上げて見つめた。「どうして黙ってるの?つまり料理できないんでしょ?」しばしの沈黙ののち、瑛介は口を開いた。「今はできなくても、将来はできる。老後になったら僕が料理を学ぶよ。贅沢な料理まではいかなくても、普通の家庭料理くらいなら作れる」その言葉に、弥生は思わず眉を寄せた。「私、別にあなたに料理してほしいなんて言ってないけど」「じゃあ君がやるのか?」瑛介はすぐにその光景を想像し、顔をしかめた。「ダメだ。それは許さない。僕がやる」彼は思った。華奢な体で台所を忙しく立ち働き、白く柔らかな手で料理や皿洗いをし、包丁を握る。そんな姿はどうしても受け入れられない。ほかの男はどう考えるか知らないが、自分には無理だった。弥生は彼の考えを知らない。ただ、こういう生活も悪くないと思った。自分は料理しても構わない。どちらにせよ、二人一緒に暮らすなら、どちらかが料理をして、もう一方が皿を洗えばいい。それで分担すればいいのだ。昼の食卓は、大きなテーブルを庭に出しての青空ごはんになった。弥生は、高級レストランのテラスでの食事も、海辺の砂浜でのピクニックも経験したこ
そう言ったあと、二人は同時に呆然とした。瑛介は思わず弥生の方を見つめた。弥生もその場で固まり、しばらくしてからようやく反応した。「仕事?私って、会社を経営してるの?」瑛介は一瞬、彼女が記憶を取り戻したのかと思ったが、どうやら潜在意識で口に出しただけらしい。彼女の会社のことを思い出し、再会したばかりの頃に紆余曲折があったことを想起した。頼むから、もし記憶が戻るにしても、まずは別のことからにしてくれ。その部分だけ思い出して、他を忘れたままだと、彼女はきっと自分に悪い印象しか持たなくなる。そう考えて、瑛介はすぐに口を開いた。「会社のことは、僕が代わりに処理する。君はやりたいときに顔を出せばいい。気負う必要なんてない」「あなたが代わりに?」弥生は瞬きをした。「でも、あなたにも自分の仕事があるんじゃないの?」「うん、両方やるさ。自分の妻を支えるのに何の問題がある?」そう言いながら、瑛介は彼女の腰を抱き寄せ、話題をそらすように歩き出した。彼女が昔の辛い記憶だけ思い出して、良い思い出を忘れたままだと、二人の関係に影を落としかねない。案の定、弥生の意識はすぐに別の方向へ向かい、会社のことには触れなくなった。代わりに、自分の知らないことを訊ね始めた。たとえば、二人がいつ結婚したのか、いつ知り合ったのか。自分に有利なことなら、瑛介は喜んで語っていた。話を聞いた弥生は、ようやく理解した。「じゃあ、私たちって、幼なじみだったの?」「そうだ」瑛介は彼女の後頭部を撫でながら答えた。「子どものころは、君はいつも僕の後をついてきた」弥生は思わず眉を寄せる。「そんなはずないでしょ?」「記憶がなくなったのだから。今僕が『好きか』って聞いたら、『好きじゃない』って答えるつもりだろ?」「......それ、論点すり替えてるでしょ」「すり替えだろうと何だろうと、使えるならいい。いいか?」「認めない」弥生はきっぱり反論した。「たとえ記憶を失っていても、私がそんなタイプじゃないわ」彼女は瑛介が失われた記憶をからかいの種にしていると感じていたから、そう強く思ったのだ。しかし、瑛介の話は事実だった。当時、彼女が宮崎家に頻繁に通っていた理由は、最初は瑛介ではなく祖母が好きだったからだ。回数を重ねるうちに瑛介と顔を合わ
「うん......分かったわ」瑛介は彼女を気遣っているはずなのに、その言葉にはどこか戯れるような響きが混じっていると弥生はそう感じてしまう。屋内でしばらく気持ちを落ち着けて、ようやく先ほどの気まずさが少し和らいだころ、弥生は立ち上がって外へ出て行った。外には大きな庭が広がっていた。庭には大きな木が茂り、畑もあり、台所は畑の横に建てられている。おじいさんとおばあさんがここで過ごし、畑から新鮮な野菜を摘んで調理していた。自然で環境にも優しい暮らしだった。弥生が外に出たとき、ちょうど和紀子が二人の子どもを連れて菜園で収穫しているところに出くわした。ひなのはお尻を突き出して腰をかがめ、野菜を引き抜こうとしていて、陽平は隣で一緒に手伝っていた。二人はせわしなく動き回っている。その光景を見て、弥生はまるで自分の足が雲の上を歩いているように、現実味のない幸福感を覚えた。「ママ!」二人は彼女を見つけて駆け寄り、呼びかけた。弥生は歩み寄ってしゃがみ込んだ。「これ、どうやるの?私も手伝うわ」和紀子は一瞥してから、にこやかに笑った。「いいのよ。そんな細い腕と足じゃ大変だわ。中で休んで、しっかり食べておきなさい。ここは瑛介のおばあちゃんと母さんに任せればいいの。おじいちゃんが帰ってきたら、ご飯を作ってくれるから、私たちは待ってればいいのよ」そう言って、弥生が反応する間もなく、菜園の外へ押し出した。弥生が出てきたところに、ちょうど瑛介の母がやって来た。彼女は笑みを浮かべて言った。「中で休んでいなさい。ここは私たちでやるから」弥生は少し気まずく思い、何か言おうとしたが、瑛介の母が先に口を開いた。「本当はね、瑛介のおばあちゃんは子どもたちともっと一緒にいたいだけなの。二人がここに長くいられないのを分かっているから、少しでも時間を作ろうとしているのよ」それを聞いて、弥生はようやく納得した。「そうだったね」少し考え、にっこり笑って言った。「じゃあ、これからひなのと陽平は、夏休みや冬休みのときに、ここで過ごさせてもいいかしら?」予想外の提案に、瑛介の母は驚いた。「私は前から同じことを言ったんだけど、瑛介のおばあちゃんは『子どもはあくまであなたのもので、あなたが寂しいだろう』と遠慮していたのよ。だから直接は言
瑛介が手を放したとき、弥生は一瞬呆然とし、しばらくしてようやく我に返った。......本当に言ったとおりにやめた?これで終わり?耳たぶにはまだ彼の唇の温かさが残り、じんわり痒いような感覚が心まで広がっている。思わず手を伸ばして触れたくなったが、途中でぐっとこらえて引っ込めた。だめ、触れちゃだめ。触れたら、また瑛介にからかわれるに決まってる。だから弥生は、耳たぶに触れたい衝動を必死に抑え、じっと座って気持ちを落ち着けた。「......なんだか、がっかりした顔してる?」瑛介がまた不意に顔を寄せ、耳元で囁いた。「続けなかったから......がっかりした?」「......違うわ!」強く否定すると、弥生は勢いよく立ち上がり、唇を噛んで言った。「あなたひとりでここにいればいいわ」そう言って立ち去ろうとしたが、手首を瑛介に取られた。「待てよ、怒るな。ただの冗談だ」「放して」弥生は手を引こうとした。瑛介は観念して言った。「分かった......僕は、君がその菓子を食べきれないと思ったから食べたんだ」その言葉に、必死で手を振り解こうとしていた弥生の動きが止まり、顔を向けた。「......なんですって?」「食べきれなかったんだろ?だから僕が代わりに食べた」そう言われ、弥生は一瞬心臓が跳ねた。気づかれたかと不安になり、思わず反論した。「食べられないって言ってないよ」「そう?」瑛介が眉を上げた。「食べられるなら、どうしてあんなに小さくかじって、あんなにゆっくり食べてたんだ?」「......私、よく噛んで食べるのが好きなだけよ」「そうか。じゃあ僕が言い直そう。僕はただ、君の手に持ってる菓子を食べたかっただけ。それでいいか?」それ以上追及せず、あっさりそう言う彼に、弥生は黙り込んだ。彼女は何かを考えているようで、しばらく言葉を発さなかった。やがて、ようやく口を開いた。「......実は、最近あまり食欲がなくて。でも、少しずつ調整してるところなの」思いがけず打ち明けられ、瑛介は驚いたように彼女を見た。「......そうか。分かってる」確かに彼女は調整している様子だった。検査でも大きな問題はなかった。だから深くは追及しなかった。そう思うと、瑛介はつい彼女の後頭部に手を置き、優し
「恥ずかしがるなよ。これよりもっと過激なことだってしてたんだから」思わず疑わしげに瑛介を見上げた。「本当なの?でも......私、そんな人じゃない気がする」そう言うや否や、瑛介にぐいっと膝の上に引き寄せられ、顎を指で持ち上げられる。熱い吐息が一気に覆いかぶさり、次の瞬間、紅い唇が彼に奪われた。弥生はてっきり、軽くからかうだけだと思っていた。せいぜい手を握る程度だろうと。ところが彼は本気でキスをしてきたのだ。脳裏で何かが爆発したような感覚に、弥生は無意識のうちに彼の衣をぎゅっと握りしめた。その唇を重ねた瞬間、瑛介はようやく抑え込んできた感情を吐き出せた気がした。いや、この何年ものあいだにこの感情をずっと抑えていたのだ。そう思うと、彼は腕に力を込め、抱きしめる弥生を骨の髄にまで取り込もうとするかのように強く抱き寄せた。本来は彼女をからかうつもりだったが。実際に触れてしまうと、全身が彼女に引き寄せられ、離れたくなくなった。ただひたすらに彼女を自分のものにしたくなる。予想外の深い口づけに、弥生は次第に緊張を募らせた。最初は衣を掴むだけだった手も、ついには彼を押し返そうと動き出した。必死に力を込めて、ようやく彼を押しのけ、荒く息をついた。「やめて......誰かに見られるから」ここは自分たちの家ではないから。瑛介は押し返されたまま彼女を見つめ、瞳に熱をたたえていた。呼吸は彼女と同じく乱れ、いや、それ以上に荒い。「誰も入ってこないさ。二人が子どもを連れて出て行ったのは、僕たちに場所を空けてくれたからだ」その説明に、弥生の耳から首筋まで真っ赤になった。「それでも......ダメ」確かに子どもたちはいない。でも、自分たちが部屋にこもりきりになれば、誰だって察してしまう。「ダメって?」瑛介は掠れた声で彼女に迫った。「さっきキスしたとき、楽しんでただろ?ちゃんと応えてたじゃないか」「......あれは、瑛介が無理やり......」「僕が君の体を操れるとでも思う?」そう言いながら、彼の手が弥生の柔らかな腰をなぞり、軽くつまんだ。思わず声が漏れ、弥生は目を見開いた。「ほら、できるじゃないか」瑛介は低く笑った。「ならもう一度、やってみるか?」弥生の顔は一瞬で真っ赤に染まり、怒鳴った。