ログイン瑛介の声には、どこか笑いが滲んでいた。弥生は彼がからかっていると分かっていながらも、思わず言い返したくなった。「別に急いでないわよ」「うん、分かってる。弥生は急いでない」この人、なんでこんなに腹が立つ笑い方をするのよ。弥生は少しむっとして、仕返しのつもりで彼の腰をつねった。もちろん、傷口を避けて。「ん......」軽くつねっただけなのに、瑛介は低く唸るような声を漏らした。その顔が一瞬で変わった。次の瞬間、彼は反射的に彼女の手首を掴み、低くかすれた声で言った。「......やめろ」弥生はぎょっとして、まさか傷に触れたかと思った。でも、その表情はどう見ても苦しんでいるというより、むしろ......気持ちよさそうに見えた。たったそれだけの反応に、弥生は言葉を失った。そんな彼女の混乱をよそに、瑛介はさらに追い打ちをかけた。「これ以上つねったら、車の中で何するか分からないぞ」弥生は数秒間、固まったあと、顔を真っ赤にして手を振りほどいた。「変態!」瑛介は小さく笑い、唇の端を上げた。「忘れてるかもしれないけど、僕たち夫婦だぞ。少しくらい変態でも許されるだろ?「でも、今の君はまだ体が本調子じゃない。もう少し元気になってからだな」そう言って彼は、力を込めて弥生を抱き寄せ、耳もとで囁いた。その息がふっとかかり、弥生の耳まで熱くなった。「......まずは、自分の傷を治してから言いなさいよ」瑛介は「なるほど」と言わんばかりに頷いた。「つまり、僕の傷が治ったらしてもいいってことか?」「いつそんなこと言ったのよ!」「今言ったじゃないか。治してからって」「それは違うってば!」弥生はこれ以上口で勝てないと悟り、ぷいと顔をそむけた。「もう行かない。勝手に行けば?」慌てた瑛介がすぐに腕を伸ばし、彼女を抱き戻した。「ほら、拗ねるなよ」低く笑いながら、額にそっとキスを落とした。「......さ、行こう。車に乗って」弥生は頬を染めたまま彼をにらんだが、彼がもう冗談をやめたと分かると、静かに頷いた。「今から出発?」「じゃないと、いつ行くんだ?」「でも、あなたの傷......安静にしてなきゃ」「うん。だから二時間走ったらホテルで一泊する」その言葉に
だから今回、弥生がまた出かけると聞いたひなのは、すぐに不安になった。また長い間、ママに会えなくなるのではないかという思いが胸いっぱいに広がったのだ。血のつながりというのは不思議なもので、たとえ記憶を失っていても、弥生の心と身体は母親としての本能を覚えていた。娘の怯えた声を聞いた瞬間、彼女の胸の奥はふっとやわらかく溶けていった。弥生はそっとしゃがみこみ、彼女の頭を優しく撫でた。「ママはちょっとだけお出かけするの。すぐに帰ってくるからね」しかし、今回のひなのは簡単に信じる様子はなかった。「おばあちゃんも前にそう言ったのに、ママ、全然帰ってこなかったよ?今度はほんとに何日なの?一日?二日?」言いながら、ひなのは小さな指を一本ずつ折って数えはじめた。弥生は言葉を詰まらせた。......この子、すっかり学習してるわね。確かに、前回は「少しの間」と言ったきり長い別れになってしまった。でも今回は、自分でもどれくらいかかるのか正確には分からない。すべて瑛介の段取り次第だった。弥生は助けを求めるように彼の方を見た。瑛介は二人のやり取りを静かに見守っていたが、視線が合うとそっと歩み寄ってきた。そして彼も膝をつき、ひなのと同じ目線にしゃがんだ。大きな手が小さな頭の上に乗った。「早ければ三日、遅くても五日で帰ってくる。いいか?」「......五日?じゃあ、ママは遅くても五日後には帰ってくるの?」「そうだ」それでも、ひなのはまだ疑いの目を向けていた。「ほんと?ひなののこと、だまさない?」その真っすぐな視線に、瑛介は思わず笑い、指先で娘の鼻を軽くつついた。「だまさないよ。もしだましたら、パパが家でワンちゃんになって、ひなのの馬になってあげる」弥生は思わず目を見開いた。背後で聞いていた瑛介の母もぽかんとした顔で固まった。うちの息子が......ワンちゃんになるって?彼女は長い結婚生活の中で、そんな言葉を夫から聞いたことはなかった。まあ、無理もない。うちは息子しかいなかったのだ。娘がいれば、瑛介もこうなるのかもしれない。「ほんと?じゃあ約束ね!」ひなのは満足そうに笑い、瑛介にぎゅっと抱きついた。「約束だ。さ、もう遅い。おばあちゃんと一緒に休もう」瑛介が優しく頭を撫
「お母さん、そんな言い方をなさらないでください。家族なんですから、離ればなれなんてありませんよ」弥生がそう言うと、瑛介の母はふっと笑い、弥生を抱きしめた。「そうね、あなたの言う通り。私たちはもう家族なんだから、いちいち気を使う必要なんてないわね。私は一人で乗るわよ。たった数時間のことだし。その代わり、今夜は二人を私の部屋で寝かせていいかしら?おばあちゃんとお泊まりってことで、ね」そこまで言われては、弥生も断る理由がなかった。結局、瑛介の母は一人で別の車に乗り込み、荷物の一部をそちらの車に積み込んで出発した。帰り道、弥生は窓の外を眺めながら、これからのこと、瑛介が言っていた弘次との「再会の段取り」を思い出していた。胸の奥にはいくつもの言葉が渦巻いていたが、後部座席で二人の子どもが並んで座っているのを見て、何も口にできなかった。彼らの前で話すような内容ではない。弥生は唇を噛み、言葉を飲み込んだ。車が山道に差しかかったとき、前方に数人の作業員の姿が見えた。道端に機材を並べ、何やら準備をしている。弥生が目を凝らすと、それはどうやら道路の補修工事らしかった。前に瑛介が「この道、修理しないと危ないな」と何気なく口にしていたことを思い出した。まさか、本当にすぐ動いたの?その手際の早さに驚きを隠せなかった。普通なら、計画して人を集め、許可を取るに時間がかかるはずだ。それなのに、もう工事が始まっている。「次に来る頃には、この道もずいぶん走りやすくなってるはずだ」運転席の隣で瑛介がぼそりとつぶやいた。弥生は窓の外の景色を眺めながら、ただ静かに頷いた。夜になって、一行はようやく家に戻った。車を降りると、懐かしい建物が目に入った。たった二日離れていただけなのに、ずいぶん長い旅をしてきたような気分だった。別の車で到着した瑛介の母は、降りるなり孫たちのもとへ駆け寄った。「さあ、今日はおばあちゃんと一緒に寝ましょうね。もう遅いから、先にお風呂に入って準備しましょう」そう言って二人の手を引こうとした瞬間、瑛介が彼女を呼び止めた。「母さん」「なに?反対するんじゃないでしょうね?」彼女は冗談めかして笑いながら言った。「さっき弥生とも約束したのよ。ひなのと陽平も、おばあちゃんと寝るって
「えっ、もう帰るの?ここにはもう泊まらないの?」陽平が目を丸くして尋ねた。「うん、また今度来ようね。この家が好き?」「うん、大好き」陽平は力強く頷いた。「曾おばあちゃんも、曾おじいちゃんも、ひなのと陽平にとても優しいから」その素直な言葉に、弥生は思わず微笑んだ。「じゃあ、また次に来たときも一緒に遊んでもらおうね」「うん!」そして陽平はふと思い出したように尋ねた。「次に来るときも、ママ一緒に来てくれる?」「もちろん。ママも一緒よ。ただね、冬休みや夏休みに長く泊まることになったら、そのときはママがずっと一緒にいられないかもしれないの」そう言いながら、弥生はスマホを取り出し、陽平が作り上げたレゴをパシャリと撮影した。そのままSNSに投稿しようとしたが、アカウントがないことに気づいた。救出されてから瑛介が新しいスマホを用意してくれたが、前の携帯もアカウントも弘次のもとにある。弥生は投稿を諦め、写真を保存してからスマホを閉じた。あとで瑛介に頼んで、あのスマホを取り戻してもらおう......ちょうどそのとき、瑛介が戻ってきた。「寝間着、もう買ってくれたみたいだ。今、戻ってくる途中だよ」「そう。じゃあ、次に来たときに使いましょう」「うん」夜に帰るという知らせを聞いて、和紀子が真っ先に駆けつけてきた。「本当にもう帰っちゃうの?もう少し、あと四、五日は泊まると思ってたのに」残念そうに言う和紀子に、弥生は申し訳なさそうに微笑んだ。「急な予定変更があって......また来ますから」和紀子は惜しそうな表情を浮かべながらも、無理に引き止めることはせず、「じゃあ今度は、私たちが迎えるわね。孫たちの顔も見たいし」と言ってくれた。「ひなのと陽平もきっと喜びます」和紀子はうなずき、自分の夫と一緒にせっせと荷物をまとめ始めた。ふたりで心を込めて作った漬物や干物、手づくりのお菓子を詰めて渡してくれた。「これ、私たちの手作りだから、味は大したことないかもしれないけど......保存もあまりきかないし。でもね、添加物は一切入ってないの」弥生はその言葉に、心から微笑んだ。「曾おばあちゃんと曾おじいちゃんが作ってくれたものなら、どんな高級なものよりうれしいです」その言葉に、和紀子の顔が
それは、弘次にとっては残酷なことかもしれない。だが、ここまで事が進んでしまった以上、もうどうしようもなかった。結局、自分はわがままで、弱い人間なのだろう。誰もを幸せにできるような力はない。手の届く範囲のことしか守れない。ここ最近は、あまりにも疲れすぎていた。何度もすべてを終わらせてしまいたいと思った。この世界から消えてしまえば、もう失う痛みを感じずに済むのにと考えたこともあった。でも、今は違う。弥生はようやく気づいた。自分は生きたいのだ。そして、今そばにある温かなものを守りたい。それ以外のことは、きっと自然に定まっていく。自分が無理にどうこうするべきことではない。「心配しないで。私はあなたと一緒に生きていくって決めたから、もう彼には会わないわ」弥生は静かに歩み寄り、瑛介の手をそっと握った。「でもね、少し気持ちが沈むのは仕方ないの。すぐには立ち直れないかもしれない。だから、ほんの少しだけ時間をちょうだい。気にしないで」その柔らかく細い指が自分の手を包むのを見つめ、瑛介の胸の奥がぐっと熱くなった。唇をかすかに噛み、抑え込んでいた感情がとうとうあふれ出した。次の瞬間、彼は弥生を力強く抱き寄せていた。「気にするわけない......そんなこと、あるもんか」彼女が自分のもとに戻ってきてくれただけで、神に感謝したいほどだった。それに今、彼女がこうして素直に胸の内を打ち明けてくれた――その事実だけで、瑛介の心は十分に満たされていた。たとえこのあと彼女が弘次に会いに行ったとしても、もう何も言うつもりはない。そう思った瞬間、彼は弥生の肩に額を寄せ、満足げに目を閉じた。「......いいよ。会ってきなよ」弥生は一瞬、耳を疑った。「えっ?」「会いたいんだろ?行っておいで。僕は怒らないよ。もともと僕が段取りしたことだし」弥生は瞬きをした。「......黙ってるってことは、承諾したってことでいいのか?」そう言われ、彼女はわずかに身を離して見上げた。「ほんとに怒らないの?もし、帰ってきたあとで、あなたが......」以前、弘次の名前を口にしただけで、彼は明らかに不機嫌になった。実際に会いに行ったら、きっと嫉妬で爆発するんじゃないかという不安がよぎる。瑛介
二人は廊下に立ったまま、しばらく無言だった。廊下はしんと静まり返り、弥生は待っていたが、瑛介がなかなか口を開かないので、とうとう顔を上げた。「......何を話したいの?」顔を上げた瞬間、瑛介と視線がぶつかった。漆黒の瞳がじっと彼女を見つめ、その奥の深さが底知れず、息が詰まるような気がした。弥生は思わず視線を逸らし、かすかな声で言った。「もうずいぶん経ったけど、まだ話すことがまとまってないなら、私、陽平のところに戻るわ。あなたも少し心の準備を......」「......彼に会いたいか?」その言葉が突然、彼女の言葉を遮った。弥生は一瞬、息を呑んだ。耳を疑う。瑛介がそんなことを聞くなんて。「彼って......」「......ああ」瑛介は名を出さなかったが、認めるように静かに頷いた。その瞬間、弥生は彼の言う「彼」が誰かを悟った。胸の鼓動が早くなった。まさか瑛介が、こうして切り出してくるとは思わなかった。頭の中にいくつもの憶測が浮かんだが、口には出さなかった。これから瑛介が話してくれるのだろうと感じたからだ。「もし会いたいなら、今夜戻ろう。俺が手配する」その声は淡々として、温度を感じさせなかった。弥生は唇を噛み、視線を落とした。「......やめておくわ」その返事に、瑛介は驚いたように目を見開いた。沈んでいた瞳に、もう一度光が宿った。「今、なんて言った?」信じられない気持ちだった。この数日、彼女がずっと元気なく過ごし、自分の電話を気にしている様子を見て、相手の安否を心配しているのだと思っていた。だから、彼の予想では、弥生は「会いたい」と言うはずだった。そして、いつ会えるのかと尋ねるはずだと。彼はその答えを聞いてもいいように、何度も心の中で準備してきた。たとえ彼女が「会いたい」と言ったとしても、それが何かを意味するわけではないと自分に言い聞かせていた。弘次に対して完全に心を切り離せないとしても、それは弘次がかつて彼女に誠意を尽くしたからだ。誰だって、自分に尽くした相手を簡単には傷つけられないだろう。だから彼は理解できたし、嫉妬するつもりもなかった。しかし、彼女の答えは「会わない」だった。それは瑛介にとって予想外であり、同時に心の奥でうれし